ロック付きのドアを閉めると、外の音が消える。43インチの4Kモニターが正面に立ち上がり、シートの奥行きは1.9メートルを超える。ANAが2019年に「THE Suite」と名付けたファーストクラスは、民間航空機のプロダクトとして当時世界最高水準の設計で登場した。
ファーストクラスという選択肢が縮小していく時代に、ANAはあえてそこに投資した。B777-300ERの最前方8席に集約されたTHE Suiteは、2026年現在も「空を飛ぶ個室」として別格の体験を提供している。
このページでは、ANAファーストクラス「THE Suite」を徹底解説する。座席の設計、就航路線、機内食、アメニティ、ラウンジ、そしてマイルで取る方法まで、実際に搭乗した体験をもとにまとめた。
THE Suite — 基本スペックと設計思想
THE Suite(ザ・スイート)は、ANAがB777-300ERのファーストクラスキャビンに導入した個室型シートだ。座席数は全8席(前方キャビン・1-2-1配列)。これはビジネスクラス46席の約17%にすぎない小さなキャビンだ。
| 項目 | THE Suite(ファーストクラス) | THE Room(ビジネスクラス)参考 |
|---|---|---|
| 座席数 | 8席(1-2-1配列) | 46席(1-2-1配列) |
| ドア | あり(施錠可能) | あり(施錠不可) |
| モニター | 43インチ 4K | 24インチ 有機EL |
| ベッド | 独立した専用ベッド(シートとは別) | シートがフルフラット |
| シート寸法 | 幅約76cm・フルフラット長約210cm | 幅約66cm・フルフラット長約198cm |
| ミニバー | あり(専用スペース) | なし |
| 収納 | 専用クローゼット・引き出し・棚 | 収納ポケット・足元スペース |
THE Suiteの設計で最も革新的なのは「シートとベッドの分離」だ。ビジネスクラスではシートをフルフラットにしてベッド代わりにするのが一般的だが、THE Suiteはシートとは完全に独立した専用ベッドが折りたたみ式で収納されており、眠るときだけ展開する。
43インチの4Kモニターは、通常の家庭用テレビを「自分専用の個室に置いた」感覚に近い。シートに座った状態で映画を見ると、映画館の前方席に近い没入感がある。
施錠できるドアという体験
THE Suiteで最も印象的なのは「鍵をかけられるドア」の存在だ。これはビジネスクラスのTHE Room(スライドドア・施錠不可)との本質的な違いだ。
ドアを閉めて鍵をかけると、機内の音がほぼ聞こえなくなる。CAがノックするまで、文字通り自分だけの個室になる。「飛んでいる」という感覚が薄れ、「高級ホテルの一室にいる」感覚が前面に出る。
窓からは雲や空が見えるが、ドア越しに他の乗客の存在は感じない。機内で過ごす12〜14時間が「移動時間」ではなく「特別な滞在時間」になる——これがTHE Suiteが「空飛ぶホテル」と言われる理由だ。
中央の2席(D・G列)はドアを開けた状態で隣同士の往来ができるため、カップルや夫婦での利用に向く。プライバシーを保ちながらも、食事やワインを共有できる設計だ。
就航路線と乗れる便
THE SuiteはB777-300ERに搭載されており、同機が使われる路線でのみ乗ることができる。2026年現在、すべての長距離路線でファーストクラスが設定されているわけではない。
THE Suite就航の主要路線(2026年現在)
| 路線 | 便番号(例) | 飛行時間 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 羽田—ロンドン | NH211/212 | 約12時間 | B777-300ER確定 |
| 成田—ロンドン | NH203/204 | 約12時間半 | B777-300ER確定 |
| 羽田—ニューヨーク(JFK) | NH109/110 | 約13〜14時間 | B777-300ER確定 |
| 羽田—ロサンゼルス | NH105/106 | 約10時間 | B777-300ER確定 |
| 羽田—パリ | NH215/216 | 約12〜13時間 | B777-300ER確定 |
| 羽田—フランクフルト | NH207/208 | 約12時間 | B777-300ER確定 |
「確定」と書いたのは、B777-300ERで運航される主力便ということだ。ただし機材繰りの変更(メンテナンス等)で当日にB787などに変更になる可能性もゼロではない。出発前日にシートマップを確認し、ファーストクラスキャビン(8席)が表示されているかチェックする習慣をつけておく。
機内食 — ファーストクラス専用の食体験
THE Suiteの機内食は、ビジネスクラスとは別メニューで構成されている。同じ便に乗っていても、ファーストクラスとビジネスクラスでは食べるものが根本的に違う。
和食コース
日本発の便では懐石スタイルの和食コースが提供される。先附・向附(刺身)・焚き合わせ・焼き物・御飯・汁物・香の物・デザートという構成が基本だ。
刺身は空輸された鮮魚を機内の冷蔵環境で保管しており、羽田離陸後2時間以内に提供される。醤油は専用の有田焼の小皿で出され、付け合わせの山葵は別添えで自分で調整できる。焚き合わせには「だし」の質が機内食とは思えないレベルで整っており、和食好きの搭乗者には特に印象的な一皿になる。
御飯は白米・炊き込みご飯・雑穀米から選べる路線もある。デザートは和菓子か洋菓子(パティシエ監修のケーキ等)を選択できる。
洋食コース
洋食コースはフレンチを基調としたコース料理で、前菜・スープ・メインディッシュ・チーズ・デザートという構成だ。メインはビーフ・魚・野菜料理から選べ、確実に食べたい料理はケータリング段階でリクエストできる(「先どり」サービスを積極的に活用するとよい)。
ワインはソムリエ資格者が選定した銘柄が複数用意されており、コースの各段階に合わせてCAが提案してくれる。ロンドン線ではボルドーのグランクリュ・クラッセが提供されることがある。
食事のタイミングを自由に設定できる
THE Suiteでは食事のタイミングを自分でコントロールできる。「搭乗後すぐ食べて睡眠に充てたい」「目が覚めてから食べたい」どちらにも対応する。CAに「○時頃に食事を希望」と伝えておくと、そのタイミングに合わせてサービスをしてくれる。
長距離フライトでは食事を最大3回提供される場合がある(離陸後・フライト中・着陸前)。全部食べると飽きるため、軽食(フルーツ・サンドイッチ等)でつなぐことも可能だ。
シャンパンと食前酒
搭乗直後のウェルカムドリンクからファーストクラスの演出が始まる。クリスタル(Cristal)やドン・ペリニョン等のプレスティージュ・シャンパーニュが提供されることが多い。食前酒としてカクテルも選べ、バーテンダー役のCAが要望に応じて作ってくれる。
アメニティと寝具
ファーストクラス専用アメニティキット(2026年版)
2026年のリニューアルでビジネスクラスはFRANZIとのコラボになったが、ファーストクラスのアメニティはさらに上位のブランドとのコラボレーションが用意されている。
アメニティキットの内容はビジネスクラスと共通の品目に加えて、ファーストクラス専用のスキンケアライン(保湿クリーム・セラム・フェイスマスク等)が含まれる。ポーチ自体もファーストクラス専用の仕様で、旅行後も部屋に置いておきたくなるデザインだ。
パジャマとスリッパ
ファーストクラスのパジャマはビジネスクラスより素材のグレードが高い。コットン100%の上質な素材で、着心地が明らかに異なる。スリッパもソフトレザー仕様で、長時間の機内歩行でも疲れにくい設計だ。
パジャマへの着替えは洗面台(トイレ)でもできるが、The Suiteのドア付き個室では座席内で着替えができる。これも個室の利点のひとつだ。
専用ベッドメイク
就寝時はCAが専用ベッドのセットアップをしてくれる。シーツ・掛け布団・枕のセットアップは、ホテルのターンダウンサービスに近い体験だ。マットレスパッドがシート面に敷かれるため、フルフラット状態での硬さが緩和される。
ビジネスクラスのフルフラットと比較すると、THE Suiteのベッドは独立した構造のため体が沈み込む感覚が少ない。長距離フライト(12時間超)で自分が眠れるかどうかは体験してみなければわからないが、枕の硬さ・枚数はCAに遠慮なくリクエストできる。
ラウンジとグランドサービス
羽田のANA SUITE LOUNGE
ANA SUITE LOUNGEは羽田・成田の両空港にあり、ファーストクラスとビジネスクラスの共用ラウンジだ。ただしファーストクラス搭乗客は専用エリアや優先シャワーを使えるケースがある。
ラウンジ内のバーでは、フライト前にウイスキー・日本酒・ワインを楽しめる。出発2〜3時間前にラウンジで食事を済ませ、機内ではワインと軽食だけにするというスタイルも選べる。
First Limousine Service(羽田)
羽田空港では「First Limousine Service」と呼ばれるファーストクラス専用の搭乗サービスがある。ラウンジから専用車(リムジン)でボーディングブリッジまで移動し、他の乗客とは完全に動線が分かれている。
このサービスは体験として記憶に残る。混雑した搭乗口を通らずに機内に乗り込む瞬間は、「特別な旅が始まった」という感覚を強化してくれる。出発30分前ごろにラウンジのスタッフから案内があるため、早めに着席して待機しておくとスムーズだ。
マイルでTHE Suiteに乗る方法
THE Suiteの最大の壁は「空席の少なさ」だ。8席しかないファーストクラスキャビンのうち、特典航空券に開放される枠は路線・時期によって1〜2席のみのことも珍しくない。
必要マイル数の目安
| 路線 | 片道マイル数(目安) | 往復マイル数(目安) |
|---|---|---|
| ヨーロッパ(ロンドン・パリ等) | 120,000マイル前後 | 240,000マイル前後 |
| 北米(ニューヨーク・ロサンゼルス等) | 120,000〜130,000マイル | 240,000〜260,000マイル |
ビジネスクラス(THE Room)の約2倍のマイルが必要になる。現金価格との比較では、ビジネスクラスよりファーストクラスの方が「マイルで乗ることの割引効果」が大きい。ファーストクラスの現金価格は往復150〜200万円(路線・時期による)のことも多く、マイルで取れれば相対的な「得」は大きい。
特典席を取るタイミング
ANAの特典航空券は365日前(ANAダイヤモンド・プラチナは360日前)から予約できる。ファーストクラスの特典枠は解禁直後に埋まることがほとんどだ。
取りやすい時期は1〜2月(閑散期)と9〜10月(シーズンの谷間)。GW・お盆・年末年始はほぼ絶望的と考えておく方が良い。
「アップグレード特典」も有効な手段だ。ビジネスクラスの有償購入チケットを持っている場合、空席状況に応じてマイルでファーストクラスにアップグレードできる制度がある。ビジネスクラス搭乗を確定させた上でアップグレードを狙う二段構えが現実的な戦略だ。
現金購入でTHE Suiteに乗る場合
現金でTHE Suiteのチケットを購入する場合、価格は路線・時期・予約クラスによって大きく異なる。羽田—ロンドン往復で100〜200万円が目安だが、特別セールやコーポレートレートでは割安になることもある。
現金購入の場合も搭乗マイルは積算できる。ファーストクラスの積算率は高く(125%〜)、THE Suiteに複数回乗ることでSFC修行の材料にもなる。ただし、コストパフォーマンスで考えれば特典航空券の利用が圧倒的に優位だ。
THE Suiteとシンガポール航空ファーストクラスの比較
ファーストクラスの世界で比較されることが多いのがシンガポール航空のA380ファーストクラス(Suites Class)だ。ANA THE Suiteとシンガポール航空スイートはどちらも施錠可能なドア付き個室を持つ点で共通しているが、細部で違いがある。
| 項目 | ANA THE Suite | シンガポール航空 Suites |
|---|---|---|
| 機材 | B777-300ER | A380 |
| 座席数 | 8席 | 6席(最新世代) |
| ドア施錠 | 可能 | 可能 |
| モニター | 43インチ 4K | 32インチ(最新世代) |
| 機内食 | 和食・洋食コース(日本発は特に高評価) | 「ブックザクック」事前注文制で評価高い |
| 就航路線 | ロンドン・ニューヨーク・パリ等 | ロンドン・フランクフルト・東京等 |
シンガポール航空の「ブックザクック」(事前にコースメニューを予約する制度)はファーストクラスの食事体験として高く評価されている。ANA THE Suiteも事前のリクエストが可能だが、仕組みとしてはシンガポール航空ほど体系化されていない。
機内食の「和食」という観点では、日本の航空会社であるANAが有利だ。日本食のケータリング品質と、醤油・山葵・だしの使い方は、ANAならではの強みといえる。
THE Suiteを「体験」として整理する
THE Suiteは「交通手段としての飛行機」から完全に外れた体験だ。移動のストレスがゼロになるだけでなく、12〜14時間の機内時間が「滞在」として完結する。
到着時の疲労感も大きく変わる。ビジネスクラスと比べてもさらに快適な睡眠ができるため、ロンドン到着後すぐに会議が入っているような出張でも、機内での休息が実質的に機能する。
一方で、THE Suiteの体験を「コストパフォーマンスで正当化」しようとすると難しい。特典航空券で取れれば話は別だが、現金で100〜200万円を払って乗るかどうかは、純粋に「その体験に価値を感じるか」の問題だ。
マイルをコツコツ積み上げて、一度だけTHE Suiteに乗ってみる——それが多くのマイラーにとって「THE Suiteとの向き合い方」になっている。乗った後は、ビジネスクラスに戻っても「あの時間があった」という感覚が残る。それがTHE Suiteの本質的な価値かもしれない。
よくある質問
ANA THE Suiteは特典航空券で取れますか?
取れますが、難易度が非常に高いです。ANAのANAマイレージクラブ会員であれば、ANA公式サイトから特典航空券として予約できます。ただし8席のキャビンに対して特典枠は1〜2席のことも多く、解禁直後(360日前)の早朝アクセスが現実的な取得方法です。閑散期(1〜2月・9〜10月)に絞ると成功率が上がります。
2人でTHE Suiteに乗って同室で過ごせますか?
中央の2席(D列・G列)を隣同士で予約すると、ドアを開けた状態で往来ができます。食事・ワインを共有しながら、眠るときは各自の個室に戻るというスタイルが可能です。特典航空券で2席同時に確保するのはさらに難易度が高いため、有償チケットとの組み合わせで検討する場合も多いです。
THE Suite搭乗前にANA SUITE LOUNGEは使えますか?
ファーストクラス搭乗客はANA SUITE LOUNGEを利用できます。ビジネスクラス搭乗客と共用のラウンジですが、ファーストクラス搭乗客は専用エリアや優先シャワーの案内を受けられる場合があります。羽田では搭乗時にFirst Limousine Serviceが提供されるため、ラウンジスタッフに申し出ておくとスムーズです。
ファーストクラスに乗る前後で、ビジネスクラスとの違いを感じる場面はどこですか?
搭乗前はラウンジ→リムジンの導線で差が出ます。機内では食事・寝具・モニター・個室の施錠の4点が別格です。到着後は優先荷物返却と入国審査の優先レーンで時間差が出ます。最も体感として大きいのは「機内食の質」と「睡眠の深さ」で、ロンドン線12時間を終えた後の疲労感がビジネスクラス比で明らかに少ない。
機内エンターテインメントとWi-Fi
THE Suiteの43インチ4Kモニターは、機内エンタメ体験を根本的に変える。通常のビジネスクラスが「大きめのタブレット」に近い体験だとすれば、THE Suiteは「個人用映画館」に近い。
IFEシステムにはハリウッド映画・日本映画・海外ドラマを含む1,000タイトル以上が収録されている。音楽(クラシック・ジャズ・ポップス)、オーディオブック、ゲームも対応している。ノイズキャンセリングヘッドフォンはファーストクラス専用のより高品質なものが備え付けられており、機内ノイズを大幅に低減する。
Bluetooth接続は新機材では対応済みだが、THE Suite搭載のB777-300ERでは機材の世代によって対応状況が異なる。自前のBluetoothイヤホンを持ち込む場合は事前に確認しておく方が安全だ。
Wi-Fiは有料で利用できる。従来のKuバンドよりも通信品質が改善されている路線が増えているが、大西洋・太平洋上空の速度安定性はまだ変動が大きい。メール確認・テキストベースの作業は問題ないが、ビデオ会議は接続状況次第だ。ファーストクラス搭乗客向けにWi-Fiパッケージが割引・無料になるサービスが提供される路線もある(路線・時期によって異なる)。
スターアライアンスとANAファーストクラスの連携
ANAはスターアライアンスの創設メンバーのひとつだ。スターアライアンスのゴールドステータス(ANA内ではプラチナ以上相当)を持っていれば、加盟航空会社のビジネスクラス・ファーストクラスラウンジを利用できる。
ただし、ANA THE SuiteのようなトップクラスのファーストクラスラウンジはANA単独の設備であり、スターアライアンスゴールドだけではアクセスできない。SUITE LOUNGEはANAのファーストクラス搭乗客・ダイヤモンドメンバーに限定される。
スターアライアンスの世界一周航空券を活用する場合、ANAのファーストクラスを組み込んで世界一周ルートを組むことも可能だ。ただし必要マイル数と空席の確保難易度を考えると、現実的な選択肢として詳細な計画が必要になる。
THE Suiteの今後 — 後継機と路線展開
ANA THE SuiteはB777-300ERに搭載されているが、ANAは次世代長距離機としてB777X(B777-9)の導入を計画している。B777Xが就航した際のファーストクラス設計については現時点で公式発表がないが、業界の動向としては「ファーストクラスのさらなる個室化・広室化」が世界的なトレンドとなっており、ANAも次世代機では現行THE Suite以上のプロダクトを検討していると見られている。
また、THE Room FXがB787-9に展開される中、ビジネスクラスの基準が上がることで、相対的にファーストクラスとの差別化がより求められる状況になっている。THE Suite自体は2019年の登場からすでに7年が経過しており、業界内での位置づけは「トップクラスを維持しているが、最前線の革新」という状態から「成熟した高水準」というフェーズに移りつつある。
それでも、施錠できる個室・独立したベッド・43インチ4Kモニターという基本構成は、2026年現在もビジネスクラスとの明確な差を保っている。特典航空券での挑戦価値は依然として高い。
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