ナパヴァレーのラザフォードに、19世紀からつづく石造りのシャトーがあります。イングルヌック。1879年に生まれたナパ最古級のワイナリーであり、映画監督フランシス・フォード・コッポラが半生をかけて買い戻し、よみがえらせた場所です。「ゴッドファーザー」の監督が、なぜワイナリーを持っているのか。その答えは、この場所の150年の物語の中にあります。
わたしは2017年7月、ナパヴァレーのワイナリーめぐりの最初の一軒としてイングルヌックを訪れ、ヘリテージテイスティングを体験しました。この記事では、シャトーの空気と、そこで飲んだワインの記録を紹介します。ナパヴァレー全体のまわり方は5つのワイナリーをめぐった訪問記のまとめにまとめています。
このときのナパヴァレーの旅は動画にもまとめています(Take Travel)
イングルヌックの150年 — 船乗りの夢と映画監督の執念
イングルヌックの歴史は1879年、フィンランド出身の船長グスタフ・ニーバウムがラザフォードの土地を手に入れたことにはじまります。アラスカの毛皮交易で財を成したニーバウムの夢は、「ナパヴァレーでボルドーに匹敵するワインをつくること」。フランスの一流シャトーを手本に品質を徹底的に追求し、1890年代には国際的な賞を受けるまでになりました。ヨーロッパの真似ではない、アメリカのファインワインの原点がここにあります。
しかし20世紀は苦難の連続でした。禁酒法(1920〜1933年)で醸造は止まり、戦後は経営が転々とし、1964年に大手企業へ売却されてからは、「Inglenook」の名前は安いジャグワインのブランドとして消費されていきます。かつてアメリカ最高と呼ばれた名前が、スーパーの棚の徳用ワインになってしまった。ワイン史の中でも特に切ない転落でした。
ここに現れたのがフランシス・フォード・コッポラです。「ゴッドファーザー」の成功で得た資金で、1975年にニーバウムの旧邸宅と畑の一部を購入。1995年にはシャトーと残りの畑を買い戻し、敷地を元どおりにします。そして2011年、長い交渉の末に「Inglenook」の商標そのものを買い戻し、ワイナリーは132年前の名前を取り戻しました。同じ年、ボルドーの名門シャトー・マルゴーから醸造責任者フィリップ・バスカレスを迎えています。分割された土地と、奪われた名前と、失われた品質。その三つすべてを取り戻すのに、コッポラは35年以上をかけました。
訪問記 — 並木道の先のシャトー

ツタに覆われた19世紀の石造りシャトー。1880年代の建物がいまも現役(筆者撮影)
ハイウェイ29号線から敷地に入ると、長い並木道がまっすぐシャトーへ延びています。並木を抜けた瞬間、ツタに覆われた石造りの建物が正面に現れる。このアプローチは、フランスのシャトーめぐりに近い高揚感があります。ナパヴァレーには立派なワイナリーがいくつもありますが、「歴史の重さ」で言えばイングルヌックが別格です。なにしろ建物そのものが1880年代のまま建っているのです。

シャトー前の中庭。噴水の水音と、ぶどう棚のパーゴラがつづく(筆者撮影)
シャトーの前には水をたたえた中庭が広がり、ねじれた柱にぶどうが絡むパーゴラが連なっています。噴水の水音を聞きながらベンチに座っているだけで、ここまでの運転の疲れがほどけていきました。観光地というより、手入れの行き届いた邸宅に招かれた感覚に近いです。
ヘリテージテイスティング — 歴史を4本で味わう

石壁のサロンで受けたヘリテージテイスティング。メニューとグラスとパンが並ぶ(筆者撮影)
わたしが体験したのはヘリテージテイスティング。シャトー内の石壁のサロンで、丸テーブルに白いクロス、グラスが人数分ずらりと並び、ソムリエが一本ずつ注ぎながら解説してくれるスタイルです。天井のシャンデリア、石の壁、カフェチェア。100年前もこうだっただろうと思わせる空間で、注がれるワインを待つ時間そのものがごちそうでした。
この日注がれたラインナップは次のとおりです。
| ワイン | 特徴 |
|---|---|
| 2015 Blancaneaux(ブランカニュー) | マルサンヌ等をブレンドしたローヌスタイルの白。花と蜜の香り |
| 2014 Edizione Pennino Zinfandel(エディツィオーネ・ペニーノ) | コッポラの祖父の音楽出版社のラベルを再現したジンファンデル |
| 2014 Cabernet Sauvignon | ラザフォードの土壌を映すカベルネ |
| 2013 Rubicon(ルビコン) | フラッグシップ。ボルドースタイルのブレンド |
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左からBlancaneaux、Edizione Pennino、Rubicon。ラベルはどれも19〜20世紀のデザインを受け継ぐ(筆者撮影)
印象的だったのは、どのワインにも「物語のラベル」が付いていることです。エディツィオーネ・ペニーノのラベルには自由の女神が描かれています。これはコッポラの祖父フランチェスコ・ペニーノがニューヨークで営んでいた音楽出版社のロゴの再現です。移民としてアメリカに渡った家族の記憶を、ワインのラベルにして残している。映画監督らしい記憶の残し方だと思いました。
ルビコンと「ラザフォードダスト」
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2013年のRubicon。ラベルには「NAPA VALLEY RUTHERFORD」の文字(筆者撮影)
締めくくりの2013年ルビコンは、この日のハイライトでした。ラザフォードのカベルネには「ラザフォードダスト」と呼ばれる、乾いた土やココアパウダーを思わせる独特のニュアンスがあるといわれます。正直に言うと、ことばで聞いてもピンと来ていなかったのですが、ルビコンを口に含むと、果実の奥にたしかに乾いた土の気配がある。畑の目の前で飲むと、こういう抽象的な表現が急に具体的になります。
ルビコンという名前は「ルビコン川を渡る」 — もう後戻りはしない、という決意から取られています。1975年にワイナリー再建をはじめたコッポラの心境そのものだったのでしょう。
映画ファンにとっても聖地
シャトーの内部には、ニーバウム時代の古いボトルや醸造道具とならんで、コッポラの映画に関する展示があります。撮影に使われたカメラ、「ゴッドファーザー」や「地獄の黙示録」の記念品。ワインの歴史と映画の歴史が同じ建物に同居している場所は、世界でもここだけだと思います。ワイン好きと映画好き、どちらの連れと来ても満足できるワイナリーです。


訪問情報(2026年時点)
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名称 | Inglenook(イングルヌック) |
| 所在地 | 1991 St Helena Hwy, Rutherford, CA 94573 |
| エリア | ラザフォードAVA(オークヴィルのすぐ北) |
| 予約 | 公式サイトから事前予約を推奨 |
| テイスティング料金の目安 | 50〜200ドル程度(プログラムによる) |
| アクセス | サンフランシスコから車で約1時間30分。オーパスワンから車で約5分 |
| 所要時間の目安 | 1.5〜2時間 |
よくある質問
Q. コッポラ関連のワイナリーがいくつもあって混乱します。違いはなんですか?
イングルヌック(ラザフォード)はコッポラ家の本拠で、最高級ラインを生産する歴史的シャトーです。別にソノマ側には「フランシス・フォード・コッポラ・ワイナリー」というカジュアルな観光型ワイナリーがあります。じっくりワインと歴史を味わいたいならイングルヌックです。
Q. どのテイスティングプログラムを選べばいいですか?
はじめてなら、シャトー内でワインを楽しむ基本のテイスティングで十分に満足できます。ワイン好きなら、古いヴィンテージを含むライブラリー系のプログラムがおすすめです。内容と料金は公式サイト(inglenook.com)で最新情報を確認してください。
Q. 映画の展示だけ見ることはできますか?
基本的にテイスティングやツアーの予約者向けの施設です。ただ、プログラムにはシャトー見学が含まれることが多いので、ワインと展示をまとめて楽しむつもりで予約するのがよいです。
Q. ルビコンは日本で買えますか?
買えます。輸入されており、百貨店やワイン専門店で見かけます。ただし現地のほうが選択肢が広く、ライブラリーヴィンテージ(過去の年)に出会えるのはワイナリーならではです。
まとめ — 名前を取り戻すのに35年かけた場所
イングルヌックの体験を一言でまとめるなら、「時間を飲む」です。1879年の創業者の夢、禁酒法と転落の時代、そして名前と土地と品質を35年かけて取り戻したコッポラの執念。グラスの中のルビコンには、その全部が入っています。
ナパヴァレーは50年ほどの若いワイナリーが多い土地です。その中で、150年の物語を建物ごと体験できるイングルヌックは、ナパの旅にヨーロッパ的な深みを足してくれる一軒です。オーパスワンから車で5分なので、同じ日にあわせて訪れるのをおすすめします。
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