人生の機微に触れるとき、そこには、かならず人が存在します。
そして、しばしばその人から死を感じとれます。
人に魅力を感じたとき、そこには近くも、遠くも、死があります。
死を感じたときに、その人の奥行きを強烈に意識させられます。
それを人柄や器の広さ、懐の深さと表現してもいいのですが、ひとえに人生の機微に触れる瞬間なのだと思います。
助けを求めている人にやさしく手を差し伸べられる人には、死生観が備わっています。
大切な人を失った経験や自身の生死をさまよった経験から、生きることの価値が深く備わっています。
そして、備わっているだけでなく、自分のことばにしています。自分のことばで人に伝えられます。
その繊細でしなやかで、でも力強いあり方は、やわらかな物腰のつむぐことばのなかに見え隠れし、それが人生の機微につうじた表現になっているのだと思います。
自分自身で人生の機微を感じられる人は、分相応な自分をわきまえていて、そのなかにあって、自分にとっての大切なことをちゃんとわかっています。人生の優先順位をちゃんとわかっています。
死を身近に感じているからこそ、生への歓びを享受できています。
ゆえに、自分にとっての時間は有限であるということを、こころの奥でちゃんとわかっています。
死は怖いことでなく、とても身近にある尊いことだとちゃんとわかっています。
この10年、精一杯だれかの役に立つことができたと思う。10年後、また同じように思えるようにがんばろうと思う。
ぼくの行動が、だれかの人生の機微に触れることができるような、そんなふうになれたらいいなと思う。
シュテルン
吉岡岳彦